人見知り

前回(6/13)孫のことを書いてから3週間近くが経った。それから変わったことは、沢山ある。
まず、ハイハイがちゃんと出きるようになった。つかまり立ちをする。人見知りをするようになった。当然、離乳食も食べ始めた。

ハイハイやつかまり立ちは日に日に動作が速くなっているので、進行方向の触ったらまずいものを片付けたり、とにかく目が離せなくなってきた。 
2週間前叔母が来たときは、暫くして泣き止み、ニコニコしていた。しかし今週の月曜に姪が来たときには、顔を見ては泣き、でも興味があってまた顔を…、帰るときまで繰り返した。貰った木のおもちゃだけは、しっかり気に入ったようだ。
食べることにも強い関心を持ち始めた。自分が食べることもそうだが、周りにいる誰かが何かを食べ始めると、真剣な眼で見守っている。たまに、まねて口をモグモグさせることもある。
食べることで一番困るのは、手当たりしだいに口に持っていくこと! 新聞やチラシなどクチャクチャにされるのはマシで、暫く目を離したら一部分を食べてしまったりする。
イタズラ娘に育っているが、嬉しいことに一度も病気らしい病気にかかっていない。元気な孫と、元気すぎるジジババ、これが一番か(^_^)v

我が子の時には余り余裕が無かったのか、ジジババになって責任が無くなったせいなのか、その成長振りが良く見える。成長記録を家内も時々書いていたが、娘は毎日書いているようだ。


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回復

回復と云っても、足のことではない。
我家の井戸水がやっと回復した。今年の1月から回復まで5ヶ月強かかった。先々週あたりまでポンプ(モーター使用)をまわしても空気が混じっていたのだが、先週後半から空気が混じらなくなった。
2月に市の水道局が検針に来たときには、通常使用量の3倍強を使っていたので「水漏れしていませんか?」と聞かれてしまった。水道局の資料には、我家の井戸のデーターが載っていなかったのだ。おかげで上下水道料金は三倍以上にUPしてしまった。次の検針からは水道料金は減るだろうが、下水道料金は上がったままだろう。今まで何十年か安く済んでいたのだから、仕方の無いことだと思うがヤッパリ痛い出費増だ。

東京などに比べたらカルキ臭も殆んど無いし(入ってはいる)、静岡市の水道水は美味しいヨ! でも、自然のままの井戸水はもっと美味しい。しかし一旦涸れかけた井戸水、もう暫くは沸騰させてから飲むことにしている。

ついでに左膝の現況はというと、月曜午後から暑さに耐えかね(つけている部分だけ、汗でビチョビチョ)サポーターを外している。外しても痛みが増えるわけでもなく、少し庇って歩いてはいるが、今のところ問題は無い。なので早く山遊び(いや、暑さを避けて水遊びか?)ができるよう、トレーニングを始めることにした。
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ハイキングクラブ Ⅷ

合宿3日目 

この日の予定は笹山まで200mほど登り、あとは多少のアップダウンをこなして大日峠下のバス停までの半日コースだ。
荷も軽くなり家に帰れる日とあって、皆元気良く出発。牛首から稜線の東側を巻きながら登った。
笹山(1763.3m)で小休止後、いくつかの倒木を越えて井川峠へ。今まで歩いてきた道と東西の道はハッキリしていたが、これから向かう稜線上の道は少し薄かった。 
井川峠からすぐ南のピーク付近まで踏み跡は薄くなりながらもあったのだが、その先には獣道も無かった。しかし稜線を辿り南下することにした。ピークから濃くなり始めたヤブを漕ぎながら下った。尾根の幅が広がりだした頃には、両手両足でヤブを抑えながらでなければ進めない状況が何度かあり、距離は遅々として稼げなかった。先頭は雪のラッセル同様交代しながら、先生は後で地図を見ながら方向を指示、ということをして何とかアツラ沢の頭(1513.5m)付近まで辿り着いた。
当時唯一発行されていたガイドブック「安倍川流域の山と谷」を私たちも参考にしていた。
ここから南のヤブはさらに濃くなり時間も無くなったので、ヤブを避けるため西側に下った。標高差にしてどの位下ったかハッキリしないが、かなり良い道と出合いそれを辿った。勘行峰(1449.6m)の西側を巻き、大日峠西側の開拓集落には昼過ぎに着いた。 
バスを2時間以上待つことになったが、中学生にとってちょっと遊べば時間など気にならないことだった。新静岡駅に戻って、合宿は終了した。
部員にとってこの合宿は全てが初体験のことばかりだったが、それ以降の山行の基礎となったことは間違いない。



 
現在、山伏から大日峠の稜線西側には林道が通り、昔の面影は無くなってしまった。しかし県民の森、リバウエルスキー場、青少年自然の家が設置され、市・県民の憩いの場になっている。

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ハイキングクラブ Ⅶ

合宿2日目 

日の出と同時頃に起床。朝と昼用(握り飯)のご飯を薪で炊き、味噌汁・おかずはラジウスで。なんやかやで、出発は8時頃だったと思う。
朝から強い日差しの中を歩き始めたが、崩れやすい黒い破片岩のザレを登る頃には昨日と同様何人かがバテテしまい、新窪乗越(1850m)まで思いがけず時間が掛かってしまった。
当時の大谷崩は今と違い、樹林は尾根の末端に僅かにあるだけで、道に日影は無かった。 
新窪乗越から山伏までは、アップダウンを何度か繰り返し徐々に高度を上げていく。しっかりした道はあるのだが、鹿の踊り場ふきんでは背丈を越える笹が道を隠し、笹を漕いで進むのにも時間が掛かった。今は笹が2-3m幅で刈り払われ、歩きやすい道になっている。当時は木々も小さく、笹原はもっと広かった。
立ち枯れた栂の木が目立ち始め、山伏(2013.7m)には予定より遅れて昼少し前に着いた。
今は南アや富士山の眺めの良い頂だが、当時は立ち枯れた木が多く、笹の背も高く展望はあまり無かった。夏にはヤナギランを見に訪れる登山者が多いが、私達が登ったときにはヤナギランのヤの字も無かった。 
山伏から稜線を南に辿ったのだが、この先の猪ノ段周辺で、きついアルバイトが待っていた。それは一抱え以上ある倒木が道を塞ぎ、体力を消耗させてくれたのだ。跨いだり潜ったりを何十回繰り返したか? 背負ったキスリングは枝に引っかかったり、四つんばいになっても潜れなかったり…。1785標高点近くになって、やっと倒木から開放された。その先で標高差200m位の急坂を木に摑まりながら下って、やっと牛首(1560m)に着いたがそこで時間切れとなった。
牛首の西10分弱の所に良い水場を見つけ、峠にテントを張ることにした。しかし平地は無く、緩い傾斜地に何とか張り終えた。夕食を食べ始めた頃には、樹林に覆われた峠は闇の中だった。

牛首
現在の牛首。駐車場所になっている。
山伏小屋
山伏南15分程にある、市営山伏小屋(無人・無料) 
当時は山伏山頂に直接登る道も、小屋も無かった。   
6人用のテントに二人の先生と六人の生徒がどの様に寝たかと云うと、入口に先生一人、その奥に身長の低い生徒を真ん中辺りに並べ、その足元にもう一人の先生、そんなことで8人が収まった。ここ牛首では、朝目覚めた時には全員が入口側に重なるように寝ていた。  




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足 その後 Ⅳ

夕方、一週間振りに医者に行ってきた。レントゲン撮影(2週振り・3度目)をし写真を見た結果、前回見えた傷(ヒビ)は見えなくなっていた。ということで骨は治ったのだが、真直ぐに伸ばすと痛いという症状は残っている。これの治癒には、多少時間が掛かりそうだ。
怪我直後から24時間装着していたサポーターは、土曜の夜から暑くてかなわないので寝るときだけ外していたが、医師からも昼間だけ(動きの多い時)で良いでしょうと云われた。
そして膝を伸ばせるように「膝を曲げ伸ばしする運動をしても良い」とも云われた。

しかし、来月16~17日の連休に山行計画があることを伝えたところ、渋い顔をされてしまった。「筋力が弱っているので、膝に負担が掛かると水が溜まる恐れがある」のだそうだ。
確かに左右の足を比べると、左膝上の筋肉が細くなっているのが判る。
たった4週間でこんなに違うとは驚いたが、山行という目標がある以上筋トレをする必要があると感じた。

その山行計画は、03年以来の奥秩父・釜ノ沢西俣の遡行だ。両門ノ滝から甲武信にかけての登りは大丈夫だと思うが、戸渡尾根(徳ちゃん新道)の長い下りに不安を感じる。(サポーター持参も考えている)  
2週後の再診時にOKが出るよう、同行予定者の為にもできる限りの事はやってみようと思う。
22:06 | 今日は | comments (2) | trackbacks (0) | edit | page top↑

ハイキングクラブ Ⅵ

合宿初日

夏休みに入って間もなくだったと思う。先生二人と生徒6名が、新静岡駅に集まった。そこまでは普段の山行と変わらないが、違うのは荷物の大きさと重量。現在と違って食糧は全て生物、当然重量も嵩も増える。まず米だが、一人が三合五勺から四合は持ったと思う。それに野菜や味噌、醤油など。メニューが何だったか覚えていないが、食糧だけでもかなりの量だったし、共同装備、個人装備の毛布などを加えると…。いつものリュックから借り物を含め、全員キスリングを背負ってきた。
そして梅ヶ島温泉行きのバスに乗り込んだ。

予定のコースは、新田から歩き始め大谷崩・山伏・笹山・井川峠・大日峠を経て富士見峠までを歩く予定。静岡国体で使われたところもあるが、ヤブもあるというコース。

新田から、蒟蒻畑と茶畑の間の道路を登り始めた。大谷川を渡り夕荷場の牧場(現在、別荘地になっている)を過ぎた辺りから、皆の口数が減ってきた。日差しの強さと風もなく高い気温、そして経験のない重量を担いでいることで皆バテテきたのだ。そこからテント場となる大谷崩・扇の要まで通常の倍の時間が掛かったように記憶している。
扇の要は現在と違い、樹林は尾根の下に僅かにあるだけで、強い日差しを避けることはできなったが、水だけはきれいで冷たいものが豊富に採れた。荷物を降ろしてしばらくで皆元気を取り戻し、整地しテントの設営、カマド作りに薪拾いと動き始めた。
夕食後、焚き火を囲んで大騒ぎをしたのを覚えている。

19:12 | 思い出 | comments (1) | trackbacks (0) | edit | page top↑

ハイキングクラブ Ⅴ

登山用ストーブ(コンロ)といえば殆んどの方が「ガス」と思われるのではないでしょうか。30年ほど前プリムスが出したものは、ガス缶を一旦バーナーに取り付けたら外せず(直径10cm弱、高さ25cm程の円筒形)、寒冷地ではガスが気化せず困ったものだった。現在のものは冬でもOKだし、コンパクトに収納でき便利になった。 

少し前まで、屋外での煮炊きはでやっていた。つまり、飯盒炊飯である。その頃は小学校時のキャンプなどで飯盒炊飯の経験があるので誰も困ったりしなかったが、風向きを考え石積みの釜を作ったり、薪を拾い集めるのは面倒だった。そこにラジウスの灯油ストーブを買って貰えたのだから、大喜びである。全員が使えるようになるまで、放課後に良く練習をした。

ストーブは灯油を使うPrimusu・Optimus・Svea・RADIUSと国産のManaslu、ガソリンを使うPHOEBUS他があった。  
それらについては 小さな山道具館  http://www.nirayama.com/~suwabe/ さんをご覧下さい。 

テントは帆布の重いものが一般的だったが、これも最新のナイロン地のものだった。生地はペラペラの薄いもので、アルミのポールを二本使う6人用のブルー家型だった。フライはなかったように思う。これも何度となく張る練習を繰り返した。
 
夏休み前までに地図(1/50000)の読み方も教えてもらい、夏休みに入った7月後半の
2泊3日の夏合宿にそなえたのだった。 
 
21:16 | 思い出 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

早い!

ジジ馬鹿として時々孫のことを書いているので、孫のカテゴリを作ってしまった。

先月末にハイハイで、一歩二歩(一手二手?)進むようになった。と思ったら、一昨日あたりから動ける距離も延び、スピードも早くなり、目が離せなくなってしまった。しかも昨晩には、座卓に手を掛けて立ち上がってしまった。母子手帳に記されている「平均値」より、一月くらい早いようだ。
今の子は、成長が早いのだろうか?
ハイハイ
 
その、一番の被害者は猫である。我家に来てから16年半の老婆だが、孫と目が合い、そして近づくと手が届かない所へ移動する。なぜなら、まだハイハイができない頃に、尻尾を何回も摑まれ痛い目にあっているからだ。
 ミュウ
自室?でくつろぐ愛猫 ミュウ  
彼女は目がブルーで、シャムがかかった捨て猫だった。我家に来たときは掌にのってしまう大きさで、スポイトでミルクを飲ませて大きくなった。子供たちにも悪戯もされず、可愛がられて今まで生きてきたが、これからは孫にいじめられそうだ。

先日計った体重は、孫が9kgで猫は2.5kgだった。

私の足の経過は、階段の昇降も楽になってきたし良くなっているのはわかるが、左膝周辺は若干腫れが残っている。何時になったら山遊びができるのか、行けないストレスが溜まりつつある。 
20:54 | | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

ハイキングクラブ Ⅳ

ハイキングクラブで登ったのは安倍東稜の山が多い。と云うより、西稜の山はアプローチが長かったり、バスの便が悪かったりで登れなかった。当時、十枚の中ノ段までの林道や、真富士の平野からの林道工事が始まっていた。 

特に良く通った十枚山へは六郎木(バス:二時間強)で降り、関ノ沢集落を抜け南沢出合から尾根に取り付き中ノ段集落まで約1時間。十枚峠まで2時間弱。山頂まで30分という行程。どこの山に行っても、山頂着は昼になった。往路を六郎木へ戻ったり、下十枚から地蔵峠・有東木>を経て渡(ど)へ下ったり、東の温井へ下りバスで南部内船に出て富士から静岡に戻ったりと、色々なコースを歩いた。   
同じく遠出としては梅ヶ島から安倍峠を越え、大城から身延まで歩き電車で静岡まで戻ったことがある。このコースで大変だったのは、大城川に下ってから身延までが長かったことだ。
冬の安倍峠
06年1月の安倍峠からの富士山
 
6月にはクラブの備品として、ナイロン生地の6人用家型テント一張とラジウスの灯油コンロ一台が購入された。   
これは、夏合宿のためのものだった。



   
21:13 | 思い出 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

やっと完成

6月14日に会の例会があるので、それまでに会報を作らねばならなかった。それが先程やっと終わった。印刷会社で作る会もあるが、当会のは全て手作りです。私が原稿(山行記録など)を集め(なかなか集まらない)PCに入力、写真(スキャナーで取り込んだりメールでもらったり)があればそれも。地図が必要なら手書きしたりコピーしたり、を年間を通して随時行う。そして先週中ごろから印刷を始め、今日になって製本終了。
つまり私が校正・編集・レイアウトから印刷・製本まで全てを行っている。会員数分しか作らないので部数は少ないが、それでも手間は掛かる。今回は58頁(両面印刷・写真はカラー)と表紙と裏表紙のものが出来上がった。

会報名は TRICOUNI 。昔日の鋲靴に取り付けられていた、「鋲の名(トリコニー)」が会報名になっている。 

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足 その後 Ⅲ

膝を打ってから今日で11日目、経過は自分では良いと思っている。

1週間ぶりに病院へ行き、改めてレントゲン写真を撮った。
5/25には内出血があってはっきり見えなかった所が、良く撮れて?いた。25日は診察台で寝ながら見たので「大腿骨」と思ったのだが、それは間違いだった。
今日の写真を見ると、膝の下腓骨の上端に顆間隆起という出っ張りがある。その前側下の内側(身体を正面から見て)にヒビ(1cm弱の)が認められた。この顆間隆起は、半月と靭帯の付着部になっている場所だそうだ。
「平地を歩く時には痛まず、少し捻れた時に痛む」という症状の原因がはっきりした。つまり、捻れた時に靭帯がヒビを刺激するようだ。
ヒビがくっ付くまでサポーターは外せないし、無理は禁物ということだ。
家内に「1・2週間は山に行けないね」と云われたが、もう少し長引きそうな感じだ。 
21:01 | 今日は | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

ハイキング クラブⅢ

前回服装・装備に触れたが、もう少し細かく。
私はキャラバンシューズ(ゴムの上にナイロン生地を貼った靴。革靴よりかなり安く、多数の人が履いていた。)を履いていた。初めて山歩きをした井川峠では何を履いていたか覚えていないが、富士山に始めて登った時(小3)にバスケットシューズを買ってもらった。その後中学に入ってキャラバンシューズを買ってもらい(父とは積雪期を除き月に1回は山に行っていたと思う)、そして中3の秋には憧れの黒い革靴になった。他の連中もだんだんキャラバンシューズを履くようになった。
 
ザックは帆布のサブザックで、雨具は無し(売ってはいたが、高くて買えないし、身体の小さな中学生に合う物など無かった)。傘も折りたたみ傘が発売される以前なので、それも無し。だから雨が降っても、濡れて歩いた。時計も高価なので、誰か一人が親の物を借りてきた。 
着衣は最初はYシャツと黒ズボンだったが、それも綿の山シャツとズボンとだいぶカラフルになってきた。肌着は当時流行の網シャツ(綿製の目の粗い魚網のようなもの)を着ているものが多かった。

ザックの中身はこの前も書いたが、弁当・水・タオルと着替えのシャツくらい。しかし、濡れないようにする工夫はされていなかった様に思う。人気があったのはその頃発売された粉末ジュースで、飲むためのコップも入っていた。

続く
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ヒマラヤ

6月16日は、Y君 B君の命日だ。1997年 市岳連はヒマラヤ・ブロードピークに登山隊を派遣した。5/26 BC着、6/2 C1建設、6/8 C2建設、6/16 C3への荷揚げと高度訓化のため行動中だった3名が、6900m付近で表層雪崩に巻き込まれ内二名が行方不明となった。6/18 二名の遺体を発見、収容。これが事故の概要で、私も計画段階からサポートに加わり、事後処理にもあたった。Y君とは、数回山行を共にした。今日、彼が所属会していたK会を中心に仲間達が、彼が大好きだった南ア深南部の不動岳へ追悼山行に出掛けている。私も行きたかったが、所用と左膝のこともあり断念した。 お二人に 合掌。

そしてまた、仲間の一人が5日にヒマラヤへ出発する。
S山岳会のD氏が、東海大学パーティーの隊長としてK2へ行くことになった。登頂に成功して欲しいが、なんといっても事故を起こさぬよう、全員無事帰宅できることを願っている。

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ハイキング クラブ Ⅱ

ハイキング クラブができて、当初の部員は3年生が5人くらい、2年生と1年生が各10人くらい集まり、そして顧問の先生が3人の25~30人の大所帯だったように記憶している。クラブ活動なので、当然練習がある。どんな練習をしたかというと、鉄棒の下に敷かれた砂をザック(各個人の物)に10kg詰め、学校の裏にある谷津山(108m)に登った。茶畑の中のかなり急な坂を直登し山頂に至るルートで、標高差で95m程ある。かなり厳しかったとみえ、たいした日数も掛からず人数は半分くらいに減った。

クラブの初山行は、静岡では誰もが一度は登ると云われている龍爪山だった。〔龍爪山は、薬師岳(1051m)と文殊岳(1041m・一等三角点峰)を合わせた名前である。〕 生徒は皆、ズック靴を履き体操ズボンか学生ズボン。ザックいやリュックには弁当と水、タオルくらいしか入っていなかったように覚えている。登山口となる平山までバス、そこから小一時間で三本桜、一時間半で穂積神社(現在の場所とは違う)、一時間弱で薬師、30分ほどで文殊に着き、これを往復した。 

この山行でまた人数が減ったように覚えているが、生き残った連中は毎月一回以上の山行をこなしていくようになった。

続きは次回に
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